ブログなどによるレビューで質問をいただいた点のいくつかにお答えしたいと思う。

  • 浜地貴志さんによるレビュー
  • 浜地貴志さんからの1つ目:クオリアについて
    • (浜地さん)「「じゃあ、赤っていう知覚を見たときに、快とか不快とか感じるっていうのかな?」と考えてしまいます」
    • これは一般的な疑問のようなので簡単にお答えできないかもしれません。先天盲の方に赤色を説明する場面を考えてみてください。できない部分があるわけですが、「その時に説明しようとしたもの」と言えばヒットしますでしょうか…。
  • 浜地貴志さんからの2つ目:記憶の「それ自体での保存」について
    • (浜地さん)「つまり「別のもの」にするわけではない、という言い方になるのかと考えました」
    • コトガラとして難しいことを述べているわけではないのですが、的確に支持/参照するのが難しいという感じじゃないかと思います。拙著150ページをご覧ください。多くの人は漠然と宇宙全体が(勝手に)存続していると考えていると思います。このことは拙著の立場からすると間違っているのですが、ここで宇宙全体が存続しているという様態に注目すると、これ、別に何か他のものに収納することによって存続させているわけではない、ですよね。何か特別な変換操作や置き場所を必要としない保存、これがそれ自体で保存ということです。
    • ベルクソンでは、宇宙全体についてこれを認めませんが、階層3を実現しているような生物の経験についてはこれを認める、というかたちです。
  • 浜地貴志さんからの3つ目:人間(神経)中心主義について
    • (浜地さん)「ややもすると人間中心主義になるのではないか」「神経バンザイ・脳バンザイ」ではないか。
    • (浜地さん)「ひとまずはこれは、この創発を「神経でやってる」と捉えなければいいのかもしれません」
    • 二つの方向でお答えできるかと思います。
    • 一つは、知覚にせよ記憶にせよ、「器官帰属の誤謬」(255ページ)を避ける点で一貫していること。これは回顧的錯覚の一種であり、ベルクソンは常に、脳や神経ができる前からのストーリーで創発を考えようとしています。
    • 二つ目は、逆の補足です。創発は6章1節の末尾(285ページ)で念押ししたように、実現した回路構造によってその維持は保証されない。構造が実現すれば、あとは安泰というわけにはいかない。あくまでも動作が未完了相を開くことが不可欠で、それは回路の完成と共に退縮するので、神経や脳が高度な回路を実現すれば意識や自由が成り立つというわけでもない。
    • 以上をまとめると、神経や脳は創発にとって必要でも十分でもないということです。
    • たしかに現実の進化では、必要な遅延構造と複雑性の展開(「水路づけ」による)を神経が担っています(5章)。ですが、別な宇宙生命を考えた時に異なる実装の仕方を考えることはできるはずです(米田著参照)。
  • 丸山隆一さんのレビュー
  • 丸山隆一さんからの1つ目:システムと反作用について
    • 物質としての反作用と生物としての反作用は同列に語れるのか?という問いとして受け取りました。
    • 「運動階層」という考え方(236、244、250、266など)に概念的な問題があるかもしれない。仮定しているのは、物質の相互作用に基づいて化学的な相互作用ができており、それらを組み合わせて細胞の相互作用が組み立てられているといったこと。比喩レベルで言えば、プログラムで言う機械語と高級言語の関係のように考えていましたがどうでしょうか(ソースコードの比喩を236ページで使っています)。
  • 丸山隆一さんからの2つ目:どこまで計測の時間をもちこんでよいのか
    • (丸山さん)「どこまで「方法的な潔癖症を緩めること」が許されるのか。そこの割り切りに関して、自分に自信をもつのが難しい」
    • ベルクソンは「計測」を用いることを禁じていない、というのがお答えになります。『試論』について、従来からあたかもベルクソンが計測を「排斥」しているかのように受け取られることがあまりに多く、本書ではその誤解を払拭すべくそこを強調しました。
    • ベルクソンが批判したのは、質を計測された量と「混同する」ことであって、拙著では序章で最初にその二つのアプローチと性格について最初に「切り分け」作業を行いました。
      • この「切り分け」は、ある事象Aにはこちらしか使えない、というような対象領域による外延的な切り分けではなく、同じ事象Aについてどちらの手法も利用できるが、そのアウトプットを取り違えないこと、という概念的な切り分けの意味です。
      • 例えば自らの記憶に対して「空間化」を適用すれば、出来事の系列が得られます。それは避けるべきことでもなんでもない。ただ、得られた出来事の系列は「空間化」の処理によって得られたものであって、それが「体験されている記憶」の姿だと取り違えることはあってはならないと述べているだけ。計測も計測で私たちが行う現実の認識の一様態。
      • 雑な比喩で勘弁してもらえれば、当事者へのインタビューに基づく質的研究とビッグデータによる統計的研究の関係に似ているかもしれません。
    • なのでまさにご指摘の通り、MTSを記述するためには計測はむしろ必要不可欠なのです。
      • 拙著47ページ「条件づけられるほうの時間(持続)の手前に、それを条件づけているほうの時間構造が見えてくる。そしてその解明のためには、計測の時間が必要になる」。
    • つまり、計測と体験は、どこまで使っていい/悪いというのではなく、使えるところで常に全力で使うべき、という(泥臭い)態度が答えになります(34、40ページ)。
    • この点とベルクソンが科学を手放さない哲学者であることとは表裏一体。「方法論的な潔癖」との訣別は、むしろそのためにある。
  • 丸山隆一さんからの3つ目:「説明」や「理解可能性」という概念をどこまで拡張できるか
    • (丸山さん)「「凝縮説には、どのような状況下でどのようなクオリアが生じるかについての具体的な予測能力はない」(p.94)とされる。これは結構重要な記述で、体験をする当事者のシステムを、ミクロな物質システムの時空間パターンに翻訳することはできないということだろう。こうした、「予測力を持たない説明」というものをどう受け止めるか、態度が問われる」
    • この戸惑いも、丸山さんの問題意識の深いところから出てきたもので、真摯に受け取りたい。
    • 丸山さんが引用されている直後の「どんな味の料理ができるかで はなく、そもそも味なるものがどうやってできるかを問うているのだから」という文(p.94)が答えのつもりなのだが、もっと丁寧に論じるべきだったかもしれない。
    • 「どんな味の料理ができるか」はp.64の「相関・決定の問い」で、ベルクソンの議論は、その「説明」ではなくむしろそれに直交する「産出の問い」。
      • もしかしたら「相関・決定の問い」の同列・延長線上で、それを補う議論と位置付けられたのかもしれない。
    • 前者の問いだけでは永久に「了解しきれない」ところが残る。そこを補う了解の枠組みとでも言えば良いだろうか。
    • もっとうまい回答ができれば更新したい。

  1. 『世界は時間でできている』レビューなど | ひらいやすし

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