応用哲学会WS:〈意識の遅延テーゼ〉の行為論的射程——神経科学と人工知能研究による「拡張ベルクソン主義」アプローチ

4月22日(土)に応用哲学会@福山平成大学にてワークショップ提題。

20170430追記:三宅さんのスライドが公開されています。https://www.slideshare.net/mobile/youichiromiyake/ss-75448140

以下、ワークショップ要旨。

〈意識の遅延テーゼ〉の行為論的射程
——神経科学と人工知能研究による「拡張ベルクソン主義」アプローチ

平井靖史(福岡大学人文学部)
太田宏之(防衛医科大学校医学教育学部)
三宅陽一郎(日本デジタルゲーム学会理事)

 

ベルクソンの『物質と記憶』は、心の哲学に時間論からアプローチするという戦略で執筆された、彼の哲学的主著である。専門の研究者の間でも十分な受容がなされてきたとは言い難いこの書物について、2015年以降、現在の心の哲学および意識の科学のうちに文脈化することで、その理論的可能性を包括的に再検証しようとする試みがなされてきている。

今回のワークショップでは、この試みにおいてその中心的な意義が明らかになりつつある二つのテーゼをとりあげ、これらが「行為」の理解にどのような貢献をもたらしうるかを論じたい。ベルクソンのアイデアに対して神経科学と人工知能研究の分野から検討をおこなうことで、論点の具体化・精緻化を図り、より生産的な議論枠組みを整備することで広く諸分野の研究者からのコメントを仰ぎたいと考える。「拡張ベルクソン主義」のポリシーに基づくため、目的はテキストの擁護ではなく、心と行為を、時間を通じて理解するためのモデルの提示と洗練である。

問題となるベルクソンのテーゼは以下の二つである。

  1. 意識の遅延テーゼ:意識の出現を、反応遅延によってシステムが獲得する時間的延長およびそれによる相対的な情報圧縮の効果として捉える。
  2. 持続の多元論:均質的な絶対時間を否定し、異なる時間単位を有する諸システムの輻輳的共存から知覚や行動の諸特性を導出する。

 

はじめに、ベルクソン研究者である平井から、各テーゼとその相互連関についての簡略な提示を行う。ベルクソンのアプローチが際立つのは、意識がどのようなものであるかの本性の究明には、意識がどのようにして生じるかという進化論的・発生論的観点が不可欠とみなす点である。比較生物学的見地から、棘皮動物から脊椎動物にいたる生物知覚を、環境に対する入出力システムの時間構造における変容としてとらえる(持続の多元論)。有機身体システムの複雑化が、その代償として要した遅延=時間的延長が、意識の質料的条件となっていると考えるのである(遅延テーゼ)。

さて、身体の有機組織化がもたらした時間的猶予は、環境に対する行動反応が並列的に多元化すること、および脳内での多様な編成を許す(「生まれかけの反作用」)。それは、以下の二つの点で、認識と行動の質を大きく変えたと考えられる。すなわち、環境刺激をリアルタイムの要求に応じてより柔軟かつ微細に分節することが、いわゆる表象的な認知を準備する点(「運動図式」)、そして、一つの選択行動を遂行中にも、同時並列的に他の身体行動への準備運動を賦活しておくことが出来る点(「有機的組織化」)、である。

 

神経科学者である太田からは、基底核を中心とした運動行動出力の遅延制御とその時間的多層性について報告してもらう。

トノーニとマッスィミーニは、脳内の各部位の活性化のタイミングのずれ・遅延が存在する場合に、情報の量と統合性が高い水準で両立する(意識として現出する)ことを指摘し、したがって大局的にはベルクソンの遅延テーゼに相当する主張を行っているものと捉えられる。

しかし太田はこの主張には矛盾が存在することを指摘する。活性化タイミングの遅延は脳波を用いて同定されるが、その解析対象となる脳部位は膨大な数の神経細胞から構成される。脳波の信号はその膨大な数の神経細胞の同期発火があって初めて成立する。つまり、部位内の大域的同期が情報の単位とされており、これは非同期性を基底とする主張と矛盾する。

代わりに、太田は個々の神経細胞の発火レベルで遅延が存在することを指摘する。そして皮質-基底核-ドーパミン系においてその個々の遅延の調整によって、時間的に様々に縮約された感覚-運動対の発現が制御されていることを紹介する。これは我々の選択を同期に基づいて成立する表象間の状態遷移として描くモデルに反省を強いるものであり、一つの身体において運動出力を行うという意味で、多層の持続リズムが溢れつつも収縮を余儀なくされるモデルへと我々を導く。

 

ゲーム人工知能研究を専門とする三宅からは、遅延条件の批判検討と、遂行中の行為が多元的である必要性について、構成論的アプローチの所見を交えた報告がなされる。バーチャルにではあれすでに運動出力可能な身体を有したゲーム人工知能の研究は、意識や知覚にたいする行動の影響について極めて有益な示唆を持つ。

さて、三宅は現行製品においてすでに、ベルンシュタインの知見を踏まえつつ、階層化されたサブサンプション・アーキテクチャをキャラクター身体のうちに実装している。しかしながら、階層的な遅延を積み重ねているとは言え、現行の人工知能のモデルでは反射層の実装でしかない。したがって、意識の発生には、単に遅延をともなう階層構造だけではない条件を同定する必要がある。

意識は世界の情報を受け取る感受の主体であると同時に、行為の主体ともなる。そこで注目するのが、諸行為間の移行の滑らかさの問題である。第二提題が示すように、人間において、身体行動レベルの出力はその立ち上げに秒単位の時間スケールを要する。したがって、ある選択行為を遂行中にも、背景的には複数の行動プランが同時並行的に計画されており、それらが自身の実行機会の獲得に向けて競合しているからこそ、行動プランから行動プランへの滑らかな遷移が遂行されるものとなると考えられるのである。多元的な準備運動が、時間スケール上の制約によって刈り込まれ、場合によっては融合や再編成を被りながら、その都度の現実的行動を出力するこのプロセスに、自己主体感の成立を見いだすことが出来るかもしれない。

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兼本浩祐『脳を通って私が生まれるとき』日本評論社、2016年12月

『心はどこまで脳なのだろうか』の著者で、2016年度のPBJ国際シンポジウム「『物質と記憶』を診断する」でも登壇いただいた愛知医科大学精神科学講座、兼本浩祐先生の新刊をご恵投いただきました。ありがとうございます。
冒頭からベルクソンの『物質と記憶』に言及されており、シビれる一冊です。第二章でゾウリムシのタイト・カップリング的な知覚についての説明も分かりやすい!『物質と記憶』、『創造的進化』の研究者は必読。

PBJ-MM【出版】ベルクソン『物質と記憶』を解剖する

『解剖』書影.jpg

ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続
平井靖史・藤田尚志・安孫子信 編
ポール=アントワーヌ・ミケル(米田翼訳)/三宅岳史/ジョエル・ドルボー(木山裕登訳)/藤田尚志/合田正人/スティーヴン・E・ロビンズ(岡嶋隆佑訳)/河野哲也/檜垣立哉/セバスチャン・ミラヴェット(山根秀介訳)/平井靖史/バリー・デイントン(岡嶋隆佑訳)/岡嶋隆佑/伊佐敷隆弘/エリー・デューリング(清塚明朗訳)/郡司ペギオ幸夫、書肆心水、2016年11月。
PBJホームページ内Bookセクションにて、編著者紹介(詳細版)をダウンロードいただけます。書肆心水ホームページ内特設ページにて、詳細目次・索引のほか、藤田尚志さんによる「はじめに」と平井による「序論」の一部を読むことが出来ます。平井の序論では、『物質と記憶』がとくに現今の状況での「解剖」の必要性について、できるだけ分かりやすく書いたつもりです。

高校生にもわかるベルクソン『物質と記憶』

【福岡大学生向け告知】
1月10日火曜日4限の時間に、私が担当する文化学科の2年生のゼミで、後期の集大成として、期末発表会を行います。「高校生にもわかるベルクソン『物質と記憶』」と言うテーマです。4チームが各章ごとに15分ずつスライドを使って出来る限りわかりやすく発表します。哲学Bの授業の理解・試験の準備にもたいへん役立つと思いますので、時間が空いている方はどうぞご自由にご参加ください。もちろん参加無料、出入り自由です。

日時:2017年1月10日(火) 4限(14:40-16:10)

場所:2号館24E教室

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『現在という謎』シンポジウム終了

大変刺激的な研究会でした。
考えてみれば、時間の哲学をやっているものにとっては物理を学ぶことは「仕事」の一部な訳ですが、物理学者の方々にとって時間の哲学は本来の意味での「仕事」に含まれていない作業なわけで、にもかかわらず貴重な時間を割いてお付き合いいただいたばかりか非常にエレガントな発表をしていただけた谷村さんと大河内さんのお二方には、格別に感謝申し上げたい気持ちです。

谷村さんのウェブサイトで、執筆記事一覧を拝見して、多くの記事を読ませていただいていることに遅まきながら気づいたり。自分が授業でもよくする時計の計測が何をやっているのか問題——時間単位同士の等間隔は計測によるのではなく要請によるという話も、たいへんエレガントで参考になった。教科書的な話と謙遜されていたが、短い時間で古典物理から解析力学、熱力学、特殊相対論と、本質を流れるように押さえたプレゼンで、並大抵の包括力ではないことは素人でも分かる。やはり、気になるのが計測の基礎的なグラウンディングで等間隔の「知覚」に訴えることは、掘り下げて聞いてみたいところ。
大河内さんのスライドが動画満載なのに口頭の説明がそのタイムラインにドンピシャでハマっていくのに鳥肌ものだった。あんな授業してみたいけど、無理だろうな〜。いままでちゃんと考えたことがなかったけど、準安定状態。そんなものが純粋に物理的な状態のうちにあるわけで、この辺はベルクソン生きてたら何を言っただろう、と考える。これも時制ではなく相の話なはずで、相当面白い。

インド仏教の時間論が、まさかの現在主義+延続説など、こうした学際シンポならではの目から鱗の発見もありました。

佐金さんの現在主義がご著書を読んでいるだけでは見えなかった部分でかなりつかめたのは嬉しかった。変化の理論としての現在主義。ベルクソンの過去も現在と共存だから、この意味では現在主義になる。それでも違うのは、やはり本性の違い=ハイブリッド性か。純粋記憶。
森田さんの発表はまさに物理と哲学が半々入った議論で、さすが!
三宅さんの発表はプリゴジンとベルクソンとつなぐかなり重要なもので相当資料豊富で、殺意を感じた。時間のために4−2の時間の矢の多様性と、続く普遍性を飛ばされていたのが惜しまれる。

自分の発表準備の過程でも、色々と収穫があり。空間化批判では、持続のそれよりも「物質の空間化」批判の方が、〈持続の多元論〉や〈直接実在論(純粋知覚)〉そして〈時間化された汎心論(物質に持続を認める)〉を準備する相当に重要な役割を果たしているんじゃないか。本田裕志さんの本は非常に役立った。

また、PBJシンポでも触れたが、本性の差異っていうのが現実性/潜在性と未完了/完了では、また区分がズレるので、これら二つの二元論が混在している点をちゃんと見極めることが今後の議論にとって不可欠だという思いを強くした。課題が多い。どんどん進めなければ。
森田さん、提題者・コメンテーターの皆さんありがとう。
10月末に時間学研究所論文。
11月上旬にPBJのMMシンポ。
11月下旬に時間学研究所での発表、質的計測と時間クオリアについて。
そして12月この空間化シンポ。
全部大物だったので結構たいへんだったけれども、手は抜けなかった。面白い。

岡部聡夫訳『物質と記憶』(駿河台出版社)

2017/07/07追記:
出版後落手して、時間をかけて新旧版を比較してみましたが、かなりの変更があります。新版で施された改変は、私の目には正確さを不必要に犠牲にしているように見える箇所が多く、絶妙なバランスを実現していた旧版を惜しくも思います。

=====以下、元記事

ベルクソン 心と身体 物質と記憶力

悲願の復刊!!!!!すばらしいニュースだ。
逐語訳ではありませんが、深い理解に基づく、それゆえにたいへん読みやすい(!)訳です。
『物質と記憶』は主張が難解であるだけでなく、論争的な本でもあるので、段落内部・段落間の前後の文脈をしっかりとらえていなければとても読みにくい書物でもあります。この訳はその点で抜きん出ていると思います。非哲学・非ベルクソン研究者で『物質と記憶』を手に取られるすべての方にお勧めします。

※「逐語訳でない」というのは、哲学書の翻訳で通例なされる一対一の原語訳語の対応が固定されているタイプではない、という意味です。けっして抄訳ではありません、ちゃんとすべて訳出されています。

PBJ第8回シンポジウム終了

今年のPBJ(Project Bergson in Japan)「『物質と記憶』を診断する——ベルクソンと脳・時間・記憶の諸問題」が無事に終了しました。

『物質と記憶』を、現代の心身問題や時間論のなかで改めて吟味しなおすという意図で立ち上げたものではありますが、今回の発表・特定質問から、あらためて途方もない書物だという思いを懐かざるをえません。彼の認知・行動・記憶について脳科学との接続からより解像度の高い問題構造を析出しえたこと、彼の哲学の根幹に関わる概念や問いの立て方についての原理的・概念的な解明、現代倫理学や美的経験の時間論的構造にまでおよぶその射程、第二回目となる『物質と記憶』シンポジウムは、さらに多くの成果と課題をもたらしてくれたと思います。

ベルクソンの時間意識は現象学のそれとどう違うか。

ベルクソンはもちろん意識の問題を考えているわけですが、それが時間の問題を介して存在論化されているところが特異な点だと思います。そのためには、彼が「私の現在」「現在の厚み」と言っているときに、それがたんなるいわゆる心的な表象(複写的な)としてそういう時間を経験している、というのではなく、当該システムの現実の時間構造の変異をもたらしている、ということをしっかり概念的に整理する必要があり、これが現象学的な現在意識に還元できないことを示すためにも、デイントンの把持主義と延長主義の区別は決定的に重要なわけです。

フッサールは、意識内の過去把持・未来予持を語っても、明らかに「JetztPunktの移動」がスキームそのもののうちに前提されています。だから、幅があると言っても、それはJetztPunkt上の意識のうちに把持されたものとしての過去、となると思います。他方ベルクソンの「私の現在」が厚みを持つ、という議論は、数学的な瞬間をあくまでも理念的なものとみなすことから出発し、あくまでもその留保付きで、これにたいする直接的過去と直接的未来への浸潤という構図を描きます。

断定するには解釈の余地はありうるかもしれません。retenirという動詞をベルクソンも用います。それでも延長主義的側面があることは不可欠で、意識で時間を説明するのではなく、時間から意識の登場を説明するベルクソンにとって、第一級に重要な戦略であると考えます。

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