カテゴリー : 哲学

ベルクソン抜粋:科学と哲学

 

要約しよう。私は形而上学と科学の間に方法の差異を主張するが、価値の差異は認めない。私は大多数の科学者ほど科学について謙虚ではない。経験に立脚した科学、すなわち近代の科学者が解するような科学は実在の本質に達しうると見ている。たしかに科学は実在の一部をしか把握しないかもしれない。しかしその根底に、科学はいつか触れるだろう。いずれにせよ、どこまでもそこへと接近していくだろう。したがって、科学はかつての形而上学のプログラムの一半をすでに満たしている。科学という名にこだわらない人なら、自らを形而上学者と称しても構わないくらいだ。しかし、実在のもう半分が残っている。こちらは同じく経験に依拠する形而上学に至当な権利として帰属する。この形而上学もまた絶対に達しうる。科学が実在の残りの部分に自らを留めなくても良いというなら、この形而上学のことを科学と呼んでもよいくらいだ。それゆえ、形而上学は実証科学の上に立つものではない。形而上学が科学の後からのこのこやって来て、同じ対象を研究して、より高度な認識を得るなどということがあるわけがない。そのような関係を想定することが哲学者たちの間でほとんど恒例のようになっているが、そんなことをすれば双方に害である。科学は相対的なものへと封じ込められることになるし、形而上学は仮説的で曖昧なものに過ぎないものになってしまうだろう。「序論(第二部)」『思想と動くもの』PM, 42-43.

 

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過去の存在論+直接記憶説+客観的相対性テーゼ

で、こころ(という心理的実在)の客観的な構成を語る戦略。
主観から構成するのでは、なく。←ここが肝心。

0. こころの質料は記憶である。
1. 過去は「それ自体で」(なんらかの主観によってではなく)保存される。
2. 記憶とは、「この過去自体」、ただしこれが「想起された」もののことである(変質するが「数的には同一」、ここに意味論的な志向性が入る?パースペクティヴィズムとは異なる仕方で※)。
3. 想起「内容」の質的違いは、対象の数的差異を含意しない(客観的な相対性、知覚理論に同じ)。

時間の存在論による精神の客観的構成。意識内容の側から構成するのでないところが重要。

※要究明。

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