自由エネルギー原理はPhenomenalをどう扱うか

3月7、8日に開催さ入れた人工知能学会と協調的知能共同研究講座共催のシンポジウムで、乾敏郎先生の自由エネルギー原理についての発表を聞いた。三宅陽一郎さんから、昨秋出たばかりの乾先生のご著書『感情とはそもそも何なのか』をお勧めされて直ちに読んだ時のインパクト。そして、すでに読んでいた上であってなお、乾先生のトーク自体が非常に明晰かつダイナミックで、あらためて圧倒された。

学会全体を通じて感じ続けたこと。他の講演や発表もそうだったが、普段「哲学」の学会で話を聞いている自分からすると、制御されたフォーマットでデータを収集し解析して「こうと分かりました。(マル)」と出るのはやっぱり素朴に感動するし、そうした仕事に携わっている膨大な数の研究者達が、私たちの知識の限界を押し広げていってくれているのだということをつぶさに実感出来、込み上げてくるものがある。そして尊敬の念を新たにする。忘れちゃいけない。

そうした発表を聞きながら、ずっと、頭の中でこだましていた。「哲学はなにをやっているのか」。この大きな課題を忘れることなく進んでいきたいと思う。

さて。話を戻す。

最近の吉田正俊さんと田口茂さんの論文や、それを含む神経回路学会の特集、また1月に参加したCoRNなど意識研究のなかでどんどん目立つようになってきた自由エネルギー原理については、まだ自分でもよくわからない部分も多い。わからないなりに、疑問もあるのでメモとして残しておく。

1)手続き型記憶の無意識化について

運動生成してからのフィードバックで補正していたんじゃ間に合わない。遅延とノイズのせいだ。なので健常では同時に予測機構が働いている。ところが催眠状態や「させられ体験」では、運動生成だけ生じて予測側が働かない。だから、この予測機構が自己主体感(≒意識)を担っている。なるほど。

たしかにこれはいくつかの重要で特徴的な事例を説明する。したがって、それは(想定される水準の)意識にとって必要条件にはなっているだろう。だが、十分条件になっているか。

例えば習熟した習慣行動では、明らかに現象的意識は減退する。この場合も(というかこの場合こそ)、予測機構は走っていて十全に役割を発揮しているだろう。すると、「予測誤差を最小化すること」が意識だというよりも、「最小化できていない分だけ意識がある」と言いたくなる。少なくとも(意識を減算的に捉える)ベルクソンならそう言いたくなる。

この点に関連しては吉田・田口論文p.65で、系統・個体発生レベルではなく至近メカニズムという批判がすでにあって、それに対しては彼らのモデルはちゃんと後者を含んでいると応答されているが、であるならなおさらこの事例をどう説明するか伺ってみたい。

2) 発散するケースをどう説明するか

創造性の論点に関わる。例えば、文脈からあえて逸脱した無意味行動を取ってみたりできる。自分でもどうなるか分かってない、からこそやる。着地点(オチ)なしのイレギュラー言動。しかも意図的に。

普段の見え方を変えたい。その時に意図的に「見方を振る」わけだが、そうして得られる新しい洞察がどういうものか分からないし、そもそもそんなものが得られる保証もない、がやる。意図的に。

これに対して、FEPはあくまで原理であり、基本となる枠組みを提供するものという答えは、ありうると思う。

ベルクソンとしても、まずは(収斂的な)有用性原理としての「生への注意」が人間を含む生物全体の経験をデフォルトで制約していると考えている(知覚に対しても記憶に対してもこの原理が検閲として機能する)。他方で、これに拮抗する「拡張の努力」(あえて認知コストを上げる)ができるというのは、一部の高等動物に限られる。遊びや芸術や科学を可能にしたのはこれゆえと考えている。だから、たしかに進化的には二次的ではある(しかし個人的には個体への実装としては最初から組まないとダメという立場)。

3) 原理ではなく、機構としての実装はどうなってるのか

予測誤差最小化原理を仮定すると、非常に高い整合性でそれにフィットしたかたちで「記述」できる。これは素晴らしいことだと思う。

そこで浮かぶ素朴な疑問として、こうした予測機構が実際に発動する場面で、サプライズを増やすのではなく、維持するのでもなく、「最小化させる」ように制御する仕組みは、いったいどう実装されているのか。AIならそう書けばいい。脳ではどこに組まれているのか。制御を担う局所的な器官があるというのでなければ、進化の産物として脳全体の構造設計上の制約というかたちで実現しているという感じだろうか。

しかし、もし、人間において、予測誤差を意図的に最小化しない、あるいは場合によってはむしろ増やす方向に動くケースがあるとすると、この原理そのものをhard wiredというわけにはいかないだろう。他方でまた可変だとして、誰が変化させているのだろう。

ざっとこんな感じ。

最後に上の疑問に関連するとおもう表象と現象の区別。

意識という言葉を使う時に、representationalとphenomenalを区別しないと話が錯綜すると思う。これは自戒を込めて。たしかに、起源論的に辿った時に「(本来的)表象を獲得したところから意識が生じた」と仮定する立場にとっては、ちょうどその二つが共外延的になってしまうので潰れがちだが、概念としてはちがう(separatismを採るかかどうかはまた別)。

一方で、representationを持つということは、それを持たない(つまり環境とのactualなrelationだけでやっている生物)との対比であって、他方で、phenomenalを持つということは、intrinsicな性質をもつ(what it is likeを内的に享受している)ということで、両者は概念として独立。実際、relationalしか持たない原初的な生物がphenomenalを(もちろん相応に原初的なそれ)持つことも可能だし、representationを持つが phenomenalを持たないマシンも十分ありうる。(もちろんどちらも否定する「立場」はありえます。)

1で「(想定される水準の)意識」と書いたのはそのため。習慣行動でいくらゾンビ化しているといってもそこに「何らかの感じ」としてphenomenalはたしかに残存する。だがそれは心的に表象体験しているときのphenomenalと混同できないはず。脳内回路的には内部表象が走って機能していても、本人の現象的には表象は抱いていないケースがあるということ。

20190312追記:

その後、田口さん、吉田さん、島崎秀昭さん、@mambo_babさんからレスをいただいた。

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やりとりを通じて、お二人のアプローチの独創性もより見えてきたし、自分の疑問もクリアになった。
吉田ー田口論文は、会員向けだから入手しにくいけれども、吉田さんのブログでスライドなども公開されているので、そこからより詳細かつアップデートされた内容を見ることができますので、激しくお勧めします:
http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/2019/02.php

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