2019年 2月 の記事

過去の保存問題

たまには議論。丸山隆一氏が以下のブログ記事で、「物理学にとって記憶とは何か」というテーマを論じられている。

https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2018/09/23/223511

これは過去の保存問題に直結する予感がしてコメントしたところ、以下のお返事で確信に。

しかし、まさにこれを論じた平井論文(「時間は何を保存するか」『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する』2018年12月所収)が、テクスト解釈や色々と文脈を取り込みすぎて回りくどい議論になっており、ベルクソン研究者以外には(研究者にも?)たいへん読みにくいと評判(無念)。

というわけで、非専門家向けに骨子だけシンプルにまとめておくのも有益かもしれないと思って以下に記します。まず、問題のありかを示す一箇所だけはいちおう引用しときます。

「脳という物質のなかには、一時的に変動するだけの状態(a)があり、また痕跡として中長期的に維持される状態(b)がある。前者と後者の違いを、現在(t1とする)の物質としての脳神経(a@t1, b@t1)だけに訴えて説明することはできない。それぞれの先行する状態(a@t0, b@t0)と比較して、変動したか維持されているかが分かり、維持されているものが痕跡と言われうるからだ。ところでこの先行する状態(a@t0, b@t0)は、どこにあるか。現在の物理的痕跡と別に、この先行する物理的痕跡が同じように物質として保存されていると認めるか(この場合にはこの先行状態もタンパク質でできているので通常の観測機器で観察することができ、記憶力という特別な力は必要不要になるというメリットがあるが、物質が時間分保存されて増え続けるのは不条理だろうとベルクソンは考えている)、さもなければ、結局は研究者の記憶力に訴えることになるからだ。記憶力を説明するはずの痕跡が、実は記憶力を前提する 。」平井(2018)「時間は何を保存するか ベルクソンにおける出来事個体の数的同一性の創設とイメージの問題」『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する』226頁(「必要」は書籍のタイプミス)

で、どういう議論になっているかというと、まず、一番ギリギリまで簡略化したバージョンを示します。二択。

問題:ある脳の状態が、(ただの現在事物ではなく)「痕跡である」とはいかにして可能か。
答え:「痕跡である」ことは「異時点間」関係を含意するので、現在だけからこの関係を実在的に根拠づけることは原理的にできない。ゆえに、痕跡は非実在的フィクションであるか、あるいは実在であるなら相関者である別時点の存在を何らかの仕方で用意することが必要。
〔念のため述べておくと、物理学者が「一般化された多時点」の物質を扱うとき、「地図は土地ではない」で言う「地図」の話で、それに対して、ここで「実在」と言っているのは「土地」の話※〕

次に、論文で出した場合分けバージョン。問題をもうすこし一般化して、答えをより細かく四択に。

問題:何であれ何かが過去から存続しているという事態はいかにして可能か。
答え:以下のいずれか
⑴ 現在瞬間しか存在しない物質では説明できないので神の誠実に訴える(デカルト連続創造説)
⑵ 過去の物質の存在も認める。(少なくとも成長ブロック型の)四次元主義。
⑶ 過去の非物質的な存在を認める。(ベルクソン)
⑷ 過去の存在をいかなる意味でも認めない。(過去は(人力で正当化された)フィクション)

⑴は神力で正当化されているので、神さえ認められる人には有力。そうでない人は以下の三択。
⑵のメリットは、「物質以外を認めなくて良い」「現在と連続的」。デメリットは「物質が増え続ける」「過去の物質をどうやったら観測できるのか」などか。
⑶のメリットは、⑵のデメリットを避けられる。デメリットは「形而上学的な匂いがする」などか。
⑷のメリットは、「物質以外を認めなくて良い」(存在者コストが一番安い)。デメリットは、相当技巧的になる(説明のテクニカルなコストが高い)。

どれにしても一長一短なわけで、どう選ぶかは、いろんなコストや長短をどう見積もるかに依存するかと。ベルクソン自身は、「存続・保存」が実在に根拠づけられていることを他の様々な文脈からも重視する理由を持つので、相対的に⑵⑷のような物質主義へのこだわりが低く⑶を採っているのではないかというのが平井論文での整理。
(この「保存されている過去」が、脱心理化されているという意味で「純粋記憶」と名付けられている)

なおベルクソニアンとして⑶のデメリット(「非物質的」て何言うてるの)を軽減するべく弁護するなら、以下のような感じ(丸山氏へのメールより)。

「物質でないしかたで」にギョッとする人が多いのですが、別にスピリチュアルなものを持ち出さずも、物質に先行する中立的存在者で第一次的には宇宙は構成されていると考えたうえで、それを「ある仕方で」切り出したのが物質であるという考えです。ベルクソンはこの中立的実在をイマージュと呼んだりしていますが、別な仕方で(情報とか)考えても良いと思います。
〔なおこの方略は時間問題だけでなく、心身問題や心の発生論で他にも随伴するメリットが大きく、トータルで有用なものとベルクソンは採用。〕

そうすると、実在を、現在の物理学と整合するように「ある特定の仕方で」(例えば準同時性で)切り出したものを「物質と定義する」ということになり、別な仕方、例えば時間次元方向に切り出せば、「定義によって」物質ではない「ということになる」、という感じです。

そうして、この時間次元の方から、心の発生を組み立てていく。ここからは持続と心理的な記憶の話になっていきます。


さて、丸山氏のブログ記事では、痕跡の問題は、時間の「一方向性の問題」から説き起こされていました。こちらの問題も基本的に同型と思います。

よく指摘されるように、エントロピーで「一方向性」を説明すると称する議論は、多くの場合循環を隠していて、うまく行ってない。統計的解釈ならしばしば指摘されるように双方向的だし、過去仮説なんて、初めから過去を使っている(しかも自分で堂々と名乗っている)、露骨な循環。ビッグバンが低エントロピーとか言って、そもそもなぜビッグバンが「過去側」なのか(そのビッグバンに向かって進んでいるのではなくて)というのを問題にしているときに!

つまり、ほんとうに物理だけに訴えるなら一方向性が出てこないのが正しいのだと思います。
そして、それが議論の終わりではなくて、問題はまさにそこからで(丸山氏の展開する通り)。つまり、記憶や時間の経過というわれわれが直観的に採用している世界の時間構造の説明責任が残る。ここでも議論は、簡略化すれば二つに一つで、

・(物質しか存在しないのだから)「ほんとうは」非対称性なんて存在しないと突っ張るか、
・物質とは別なしかたで成立していると考えるか、
の二択になる。


ここまで書くと、先日全文公開した「時間の何が物語えないのか」で展開した「計測の循環」と持続(質的計測としての経験)の話も。

「例えば、何らかの運動を振り子時計で計るとしよう。振り子時計の一振りと次の一振りが時間的に等間隔であるかを、振り子時計自身は計測することができない。そこで振り子運動の斉一性を、別な時計の秒針で確認したとする(並置による計測)。では今度は、この秒針のチクとタクが等間隔であるかをどう確認しよう。質的には確認できる。しかし量的な確証が欲しい。ならば並置的計測を続けるか、あるいは物性の仮定上の斉一性に投げる他ない。つまり、別な運動体との並置による計測は、どこまでも「空回り」するように思える。だが、この空回り自体が、第四次元方向に量としての客観的な時間間隔というものが実在しているという(ベルクソンによれば)誤った仮定による描像に起因する。そこで、2つの選択肢がある。時間〔引用注:ここでは時点間の「間隔」のこと〕が実在であること自体を否定して、時間についての規約主義を採るか、あるいは、時間は実在であるが量ではないしかたで実在すると考えるか、である。ベルクソンは後者である。」平井(2017)「時間の何が物語りえないのか」『時間学の構築II 物語と時間』45頁。

ベルクソンの原典は研究者にとっても非常に難解で、私による以上の再構成も、なお根本的に間違っている可能性ももちろんあります。

しかし、ベルクソンが主著『物質と記憶』で、記憶という一見心理学的な問題から、過去の存在・時間そのものの実在という存在論的な問題に入っていったのはまぎれもない事実で、それと同じ歩みを、丸山さんの議論に見て取れたのには感銘を受けました。


※少し調べると「地図は土地ではない」というのは元はAlfred Korzybskiの言葉で、いろんな意味が含まれているようだけども、ここでの意図は、「表象はその対象ではない」(仮に表象がその対象と「適切に/機能的に対応している場合でも」、前者は抽象的構築物であって後者とは存在論的に混同してはならない)ということ。