PBJ第8回シンポジウム終了

今年のPBJ(Project Bergson in Japan)「『物質と記憶』を診断する——ベルクソンと脳・時間・記憶の諸問題」が無事に終了しました。

『物質と記憶』を、現代の心身問題や時間論のなかで改めて吟味しなおすという意図で立ち上げたものではありますが、今回の発表・特定質問から、あらためて途方もない書物だという思いを懐かざるをえません。彼の認知・行動・記憶について脳科学との接続からより解像度の高い問題構造を析出しえたこと、彼の哲学の根幹に関わる概念や問いの立て方についての原理的・概念的な解明、現代倫理学や美的経験の時間論的構造にまでおよぶその射程、第二回目となる『物質と記憶』シンポジウムは、さらに多くの成果と課題をもたらしてくれたと思います。

ベルクソンの時間意識は現象学のそれとどう違うか。

ベルクソンはもちろん意識の問題を考えているわけですが、それが時間の問題を介して存在論化されているところが特異な点だと思います。そのためには、彼が「私の現在」「現在の厚み」と言っているときに、それがたんなるいわゆる心的な表象(複写的な)としてそういう時間を経験している、というのではなく、当該システムの現実の時間構造の変異をもたらしている、ということをしっかり概念的に整理する必要があり、これが現象学的な現在意識に還元できないことを示すためにも、デイントンの把持主義と延長主義の区別は決定的に重要なわけです。

フッサールは、意識内の過去把持・未来予持を語っても、明らかに「JetztPunktの移動」がスキームそのもののうちに前提されています。だから、幅があると言っても、それはJetztPunkt上の意識のうちに把持されたものとしての過去、となると思います。他方ベルクソンの「私の現在」が厚みを持つ、という議論は、数学的な瞬間をあくまでも理念的なものとみなすことから出発し、あくまでもその留保付きで、これにたいする直接的過去と直接的未来への浸潤という構図を描きます。

断定するには解釈の余地はありうるかもしれません。retenirという動詞をベルクソンも用います。それでも延長主義的側面があることは不可欠で、意識で時間を説明するのではなく、時間から意識の登場を説明するベルクソンにとって、第一級に重要な戦略であると考えます。

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