オディロン・ルドン:無限小の非決定ではなく、構造と法則。

長らく木炭や版画でほぼモノクロの「暗示の芸術」を探り続けたルドンが、晩年になって、堰を切ったように一気に咲かせた極彩色のパステル画

僕の浪人〜美大時代はすっかりその影響下にありました。
マットなのに目の覚めるようなその鮮やかさ。徹底的に制御された彩度がもたらす静謐さ。曖昧模糊とした対象こそ、その描写は緻密さを極めること。いまも変わらず魅了されるなあ、ふああ。

つい最近、その武蔵美時代にぼくにフランス語の手ほどきをしてくれた恩師が、ルドンの文章を編訳した著書を出版されていることを遅まきながら、見つけた。
オディロン・ルドン『夢のなかで』(訳編 藤田尊潮)八坂書房、2008年

藤田尊潮先生には、ほぼマンツーマンで徹底的に指導してもらった。ランボーを初め、好きな作家や作品を、その都度テクストにして。今思えばなんと贅沢な、仏語学習環境だろう。まさに、夢のようだ。ヴェルレーヌやボードレールなど他の象徴派はもちろん、バルザックの『セラフィタ』(神秘主義宇宙論で、多次元宇宙の話とか出てくる)や、この本に引用されているルドンの手記(『私自身に』)などの散文も読ませてもらったと思う。なんか、何?思い出すと、「せつな恥ずかしい」ですね(笑)。ランボーのマニュスクリプトが限定500部とかで出たときは、お願いして図書館に入れてもらってコピーしたよな(^^)。

 

いくつか、この本からルドンの言葉を引用しとく(強調はひらい)。

暗示の芸術とは、夢に向かって事物が光を放射するようなものだ(9頁)

私の顔すれすれを通る木の枝との接触から、私は着想を得る。小石、藪、茨に覆われていようとも、それらが私の歩みを引き留めるのは、私が自らと対話し、自らに語りかけるときだけだ。そして暗く、黒々とした森の中でさえも、私は嵐が、寒さが、氷が、雪が好きだ。人の嫌がる濃霧も、私を惹きつけ魅了する雄弁な言語を持っていて、私はいつも恍惚となる(18頁)

たとえば植物界には、鋭敏な風景画家なら感じ取るであろう生の隠れた当然の諸傾向がある。木の幹はその力強さの性格によって、その繁茂と樹液の法則に従い自ら枝を伸ばす。真の芸術家ならば、必ずそれを感じ取り表現するはずだ(29頁)

ユイスマンスがほのめかしたように、そういう怪物たちは、顕微鏡の助けを借りてわかる無限に小さな定めのない世界に属しているわけではない。いいや、違う。私はそれらを創造するとき、構造物を組織するという、より重要な配慮を持って制作したのだ(29頁)

私は構成の法則、作品の拍子やリズム、そういう芸術の組織を知ったが、それらは定式や決まり文句によって覚えられるはずのないものなのだ。そうではなく、師と生徒との共通の仕事を通した交わりによって、伝わり、通じるものなのだった(6頁)

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