問いと穴の存在論

私が問わないことに、世界は答えない。
だから私の世界は、私の開いている問いの数でできている。

 

「開いている」問い、と言った。IMG_2765

「あらかじめ決められた答えréplique」が用意されているとき、問いquestionという「アンテナ」は蓋をされ、閉じてしまっているから。

答えを「求めている」あいだだけ、問いは、世界を励起させる力を持つから。

※たとえば本能的な反射行動は、プリインストールされた問いと答えのセットが盲目性をもたらすいい例だ。
※またたとえば「習慣を一つ身につける」とは、かくして、世界に対して「ひとつ、不感になる」ことだ、とベルクソンは言う。これを、僕は「問いと答えの対称性」と呼びたい。そして、この対称性が「破れ」るとき、知覚世界が問いに輝き彩られるpittoresqueのだ、と。
(以上、だいたいベルクソン『物質と記憶』第一章に書いてあること)

 

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二つの波が打ち消し合うのは、波長と振幅が一致しているとき。
逆に、問いによって開かれる世界は、だからある種の「デコヒーレンス」(一致coherenceが崩れること)と言えるか?
(「デコヒーレンス」については森田邦久『量子力学の哲学』第三章)

 

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哲学者とは「穴を掘る人」のことだ、と言われることがある(『子どもの難問』で入不二基義氏)。
日常が素知らぬ顔で闊歩する平滑な大地に、穴を見つけてしまう人、あるいはわざわざ掘ってしまう人だ、と。omisokamoon

この「穴」は「開いている問い」、「問いと答えの対称性の破れ(or デコヒーレンス)」のことだから、ベルクソンの描くぼくたちの「生彩ある」知覚世界は、テツガクでできていると言ってもいい、か

そしてこの場合、穴=問いが「開いている」ための条件は、
A 問いが新しく、まだ答えが見いだされていない、か
B すでにはめ込まれている答え=蓋を引き剥がして問いの感受性を復旧させる、か
C 問いが途方もなさ過ぎてその穴を埋める答えの目処が立たない、とか(「immenseな身体」、ランボー)。

 

 

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さらに。
穴は存在するか?という存在論的な問いがあって(加地大介『穴と境界』)。
※たとえばドーナツの穴は、ドーナツが「ない」部分のことをさすわけだが、その「ない」ものが(「ない」ことによって)「ある」のか、と。

だけど、これをいまの哲学者の「穴」に接続するなら、それが「非存在」だなんて、とんでもない!!て思う。
テツガク(としての知覚世界)にとって「穴=問い」が「あいている」ことこそが、その真にリアルな「身体」でなくて、いったいなんだろう!FullSizeRender

逆にその穴が、「答えという存在」で埋まってるなんて、世界としてはどれほど空虚で欠如的だろう。

そう思った。

※ここで何かの位相が反転するのだ。ベルクソンの哲学的直観は、ずっとそのタイミングを追っていたように思う。「意識」の減算的生成@『創造的進化』も見よ。

 

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という記事を書いているうちに気づけば年が変わったようだ。
あけましておめでとうございます。

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