2015年 1月 の記事

オディロン・ルドン:無限小の非決定ではなく、構造と法則。

長らく木炭や版画でほぼモノクロの「暗示の芸術」を探り続けたルドンが、晩年になって、堰を切ったように一気に咲かせた極彩色のパステル画

僕の浪人〜美大時代はすっかりその影響下にありました。
マットなのに目の覚めるようなその鮮やかさ。徹底的に制御された彩度がもたらす静謐さ。曖昧模糊とした対象こそ、その描写は緻密さを極めること。いまも変わらず魅了されるなあ、ふああ。

つい最近、その武蔵美時代にぼくにフランス語の手ほどきをしてくれた恩師が、ルドンの文章を編訳した著書を出版されていることを遅まきながら、見つけた。
オディロン・ルドン『夢のなかで』(訳編 藤田尊潮)八坂書房、2008年

藤田尊潮先生には、ほぼマンツーマンで徹底的に指導してもらった。ランボーを初め、好きな作家や作品を、その都度テクストにして。今思えばなんと贅沢な、仏語学習環境だろう。まさに、夢のようだ。ヴェルレーヌやボードレールなど他の象徴派はもちろん、バルザックの『セラフィタ』(神秘主義宇宙論で、多次元宇宙の話とか出てくる)や、この本に引用されているルドンの手記(『私自身に』)などの散文も読ませてもらったと思う。なんか、何?思い出すと、「せつな恥ずかしい」ですね(笑)。ランボーのマニュスクリプトが限定500部とかで出たときは、お願いして図書館に入れてもらってコピーしたよな(^^)。

 

いくつか、この本からルドンの言葉を引用しとく(強調はひらい)。

暗示の芸術とは、夢に向かって事物が光を放射するようなものだ(9頁)

私の顔すれすれを通る木の枝との接触から、私は着想を得る。小石、藪、茨に覆われていようとも、それらが私の歩みを引き留めるのは、私が自らと対話し、自らに語りかけるときだけだ。そして暗く、黒々とした森の中でさえも、私は嵐が、寒さが、氷が、雪が好きだ。人の嫌がる濃霧も、私を惹きつけ魅了する雄弁な言語を持っていて、私はいつも恍惚となる(18頁)

たとえば植物界には、鋭敏な風景画家なら感じ取るであろう生の隠れた当然の諸傾向がある。木の幹はその力強さの性格によって、その繁茂と樹液の法則に従い自ら枝を伸ばす。真の芸術家ならば、必ずそれを感じ取り表現するはずだ(29頁)

ユイスマンスがほのめかしたように、そういう怪物たちは、顕微鏡の助けを借りてわかる無限に小さな定めのない世界に属しているわけではない。いいや、違う。私はそれらを創造するとき、構造物を組織するという、より重要な配慮を持って制作したのだ(29頁)

私は構成の法則、作品の拍子やリズム、そういう芸術の組織を知ったが、それらは定式や決まり文句によって覚えられるはずのないものなのだ。そうではなく、師と生徒との共通の仕事を通した交わりによって、伝わり、通じるものなのだった(6頁)

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過去の存在論+直接記憶説+客観的相対性テーゼ

で、こころ(という心理的実在)の客観的な構成を語る戦略。
主観から構成するのでは、なく。←ここが肝心。

0. こころの質料は記憶である。
1. 過去は「それ自体で」(なんらかの主観によってではなく)保存される。
2. 記憶とは、「この過去自体」、ただしこれが「想起された」もののことである(変質するが「数的には同一」、ここに意味論的な志向性が入る?パースペクティヴィズムとは異なる仕方で※)。
3. 想起「内容」の質的違いは、対象の数的差異を含意しない(客観的な相対性、知覚理論に同じ)。

時間の存在論による精神の客観的構成。意識内容の側から構成するのでないところが重要。

※要究明。

アルチュール・ランボー「フレーズ」(『イリュミナシオン』所収)

ひさびさにランボーを訳す。

フレーズ

驚いた私たちの四つの目に、世界はやがてひとつの黒い森にまできりつめられるでしょう。二人の忠実なる子どもたちには、世界はひとつの浜辺になり、私たちの明晰な共感には、世界はひとつの音楽ハウスになります。そのとき、私はあなたを見いだすでしょう。
地上にただ一人残された老人が、穏やかで美しく、「前代未聞の豪奢」にかこまれておりますように。そのとき、私はあなたに跪くのです。
私があなたのすべての思い出を実現し終えて、あなたを束縛するすべを心得たひととなっていますように。そのとき、私はあなたを絞め殺しましょう。

〜〜〜〜〜
自分が無敵なとき、だれも退いたりしないだろう。ハチャメチャに陽気なとき、だれも馬鹿になんかされないだろう?
最高に意地悪なとき、もうだれもどうすることもできないだろう?
着飾るがいい、踊るがいい、笑うがいい。それでも俺は決して「愛」を窓から放り出したりしないだろう。

〜〜〜〜〜
女友達、乞食女、ものすごい子ども! おまえにはどうでもいいことだ、こうした不幸な女たちも駆け引きも、そして俺の当惑も。
おまえのそのありえない声を上げて、俺たちから離れずにいろ。おまえの声。この卑劣な絶望を美化する唯一のもの。

どんよりした、七月の朝。灰の味が宙を舞う。薪の匂いが暖炉にしみ出る。花々は水に浸かり、小径は荒れ放題、運河の霧雨が畑を抜ける。おもちゃと香は、なぜもうなくなってしまっているのだろうか。

XXX
俺は鐘楼から鐘楼へと綱を張り、窓から窓へと花輪をつなげ、星から星へ鎖を渡した。そうして、俺は踊る。

XXX
高台の沼からは、絶えず煙がでている。純白の日暮れの上に立ち上がるのは、どんな魔女だろうか。そこから降りてくるのは、どんな紫の発葉だろうか。

XXX
公共財源が友愛の祭りに垂れ流されているあいだも、バラ色の炎の鐘は雲間に鳴り響いている。

XXX
墨汁の心地よい香りをかき立てながら、黒い粉末が俺の眠れぬ夜にやさしく降り注ぐ。俺は燭台の火を落とし、ベッドになだれ込む。そして影の方に向き直り、目の当たりにするのだ、おれの娘たち、おれの女王たちを。

Phrases / Illuminations, Arthur Rimbaud

原文はこちらなど。

問いと穴の存在論

私が問わないことに、世界は答えない。
だから私の世界は、私の開いている問いの数でできている。

 

「開いている」問い、と言った。IMG_2765

「あらかじめ決められた答えréplique」が用意されているとき、問いquestionという「アンテナ」は蓋をされ、閉じてしまっているから。

答えを「求めている」あいだだけ、問いは、世界を励起させる力を持つから。

※たとえば本能的な反射行動は、プリインストールされた問いと答えのセットが盲目性をもたらすいい例だ。
※またたとえば「習慣を一つ身につける」とは、かくして、世界に対して「ひとつ、不感になる」ことだ、とベルクソンは言う。これを、僕は「問いと答えの対称性」と呼びたい。そして、この対称性が「破れ」るとき、知覚世界が問いに輝き彩られるpittoresqueのだ、と。
(以上、だいたいベルクソン『物質と記憶』第一章に書いてあること)

 

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二つの波が打ち消し合うのは、波長と振幅が一致しているとき。
逆に、問いによって開かれる世界は、だからある種の「デコヒーレンス」(一致coherenceが崩れること)と言えるか?
(「デコヒーレンス」については森田邦久『量子力学の哲学』第三章)

 

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哲学者とは「穴を掘る人」のことだ、と言われることがある(『子どもの難問』で入不二基義氏)。
日常が素知らぬ顔で闊歩する平滑な大地に、穴を見つけてしまう人、あるいはわざわざ掘ってしまう人だ、と。omisokamoon

この「穴」は「開いている問い」、「問いと答えの対称性の破れ(or デコヒーレンス)」のことだから、ベルクソンの描くぼくたちの「生彩ある」知覚世界は、テツガクでできていると言ってもいい、か

そしてこの場合、穴=問いが「開いている」ための条件は、
A 問いが新しく、まだ答えが見いだされていない、か
B すでにはめ込まれている答え=蓋を引き剥がして問いの感受性を復旧させる、か
C 問いが途方もなさ過ぎてその穴を埋める答えの目処が立たない、とか(「immenseな身体」、ランボー)。

 

 

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さらに。
穴は存在するか?という存在論的な問いがあって(加地大介『穴と境界』)。
※たとえばドーナツの穴は、ドーナツが「ない」部分のことをさすわけだが、その「ない」ものが(「ない」ことによって)「ある」のか、と。

だけど、これをいまの哲学者の「穴」に接続するなら、それが「非存在」だなんて、とんでもない!!て思う。
テツガク(としての知覚世界)にとって「穴=問い」が「あいている」ことこそが、その真にリアルな「身体」でなくて、いったいなんだろう!FullSizeRender

逆にその穴が、「答えという存在」で埋まってるなんて、世界としてはどれほど空虚で欠如的だろう。

そう思った。

※ここで何かの位相が反転するのだ。ベルクソンの哲学的直観は、ずっとそのタイミングを追っていたように思う。「意識」の減算的生成@『創造的進化』も見よ。

 

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という記事を書いているうちに気づけば年が変わったようだ。
あけましておめでとうございます。