2013年 5月 の記事

最近の発表

発表だけして論文になっていないものがあって、それをここであげてしまおう計画。

2011年の11月に西日本哲学会で発表したもの。

「ベルクソンの時間存在論をマクタガート的問題系によって解剖する」というタイトル。

2011bergson-mctaggart

ベルクソンの時間論を、ちゃんとひとつの時間論として、現代の分析形而上学の分析概念を用いて整理しなおすと、ひとつのあたらしい見え方が提示できるのではないか、という提案。

結論としては、時間様相を考えるのにあんもくのうちにB系列を前提して議論を構成することは、そもそも自明ではないし、A論者にとっては自滅的であるということ。その点、ベルクソンの議論は非常にたくみに考えられていて、以下のようになっている(発表では言えなかった補足を交えながら)。

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まず、A論者にとっての掛け金は、時間内変化のリアリティをどう説明するか、である。

これはベルクソンではいわゆる「持続の動的進展」ということになるけれども、肝心なことはそこで何が起きているか、である。呪文だけで済ますわけにはいかない。

まずは「過去と現在の同時発生」である。現在がのちに過去になるわけではないからである(そんな瞬間など来ない)。

ついで、存在と生成の関係である。時間的には同時とはいわれているが、論理的には過去が先である。生成としての現在がやんで存在として過去が成立するわけではないからである。過去が存在を確定することで、現在は「更新」される、つまり生成するのである。発生した現在が凝固して過去になるわけではない。過去によって推進される、その最新の断面が現在なのである。そして、系列としてのB系列は、こうして確定される過去の総体内部での秩序であるから、過去の存在成立(そしてそれに相即する現在の生成)に、論理的に依存している。

つまり、時間様相(A「系列(ではないが)」)がB系列に論理的に先行する。

ここにベルクソンの時間理解の独自性があるように思われる。現代の時間論者は(A論者でさえ)、現在・過去・未来をB系列の下位区分(パーティション)だと考えるところから始めるきらいがある。しかしいったんB系列を前提してしまえば、それを動かそうとすれば無限後退か循環である。

ベルクソンは逆である。順序系列は、確定された過去についてしかいわれることができない(「生じ」なければ日付を与えられない)。過去は、実際に生じなければ存在しはじめることができない。それは、宇宙の過去全体を「増やし」つつ、その外皮・輪郭としての現在を「更新する」するという二重の運動(=時間内変化・動的進展(A))の効果である。

未来は認めず過去を認める点で擬似成長ブロック説・擬似四次元主義である。「擬似」とつけるのは存在の意味の相違による。