実体

ひさびさの更新を試みる。

2012年の二源泉シンポジウムも終わった。
今年は発表ではなく(本編)初の司会での参加。課題も多いが、ともかくは無事終わって何より。
運営側のみなさま、翻訳チーム、発表者の方々、そして参加者の皆さま。ありがとうございました。

そんな大イベントも過ぎればあっという間。

意志の問題。後期ゼミでとりあげているが、たんなる生命の力と意志の力の関係を、どう位置づけるか。
放っておけばどんどん古くなる、という過去への解体の力(※)に抗して、たえず細胞を更新し続けることで自己保存する努力。
しかし、志向性はたんに最新の現在にしがみついているだけでは十分ではない。未来へ。
(※これってエントロピーって済ませるわけにはいかない、時間論そのものの問題で。流れ、過去への〈経過〉、それはその時間に埋め込まれた視点の同一性を前提するから。時間の経過にしたがっての解体。エントロピーは解体を説明しても経過そのものを説明しない。)
意志のこの力は生命からくみ取られたものではあろうけれども、しかし所与の生命の要求だけでは説明できない過剰。
したがって、意志は、意志しないこともできることを前提とし、それゆえ意志そのものを意志することを含意する。
二階の意志second-order volition、フランクファートとの接続。
ということは、「人格」の問題。
こうして未消化だったアンヌ・ドゥヴァリユーの原稿を読み直す。論旨は必ずしも追いやすいものではないけれど、本質的かつ魅力的な論点が多く含まれていて、刺激になる。
これが火曜日。
あ、朝はライプニッツの一性の原理(monade)について講義した。形而上学的点とは何か。生命そのものの不可分性。知覚的視点の原理的な一性について(〈私〉の問題へ)。そこから、空間的ではない意味における〈内・外〉について。

新図書館

新図書館

水曜日。
過去の自動保存が〈出来事〉を最小の単位としているならば、出来事に組み込まれることがなかった知覚たちは、保存されないということになるのか。という問題。MM3章。知覚の「待機」が、すっぽかされた場合とは何か。これを考えている内に、記憶力の二大機能、すなわち保存されたものの想起と、保持しつつの凝縮が、たがいに参照し合っていることが分かった。これは大きな収穫(である可能性)。

教養ゼミでは新規さの問題でバトルした。「組み合わせの新しさ」って、何よ?
それにしてもじゃんけんで決めたグループ発表順序がウマすぎて予定調和。
第一回が生命・魂、そこから過去・記憶をやって、今回感覚・情動。
情動性はたんなる知覚・認知では説明できない行為との接続、動機付け、心的因果、などに接続する。
しかしその志向性が所与の条件から構成された表象を目的因として立てるならば、活動は閉じたものにならざるを得ないだろう、ゆえに云々。
そんな流れで「表象を想定しない」情動の可能性から、新規さ・(価値・意味の)創造の問題になったわけです。
これを受けて次週4回目に創造性の問題が来るという流れ(笑)。そして最後に、意志・志向性。おいきれいすぎるだろ、偶然w

木曜日は、2年生向け必修でA理論とB理論の話をする。結局、B系列の所与性をどうやって基礎づけるのか、という問題。時間の都合でマクタガートの議論は半分まで。
永久主義における未来の出来事の内容とは何か。
そして成長ブロックモデルは「過去の実在」の意味をちゃんと限定しなければ撞着するということ。「過去の人」が実在するなら、その人が発話者としてその時点を「今」と述べることが可能となり、したがって云々。

そして夜間。
絶対無限の実体が必然的に存在することを証明した(笑)。『エチカ』第一部定理11までを90分でたどってね。21:10に証明終了。

夜間の授業は、いい。

広告
  1. トラックバックはまだありません。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中